似島中と原爆との関わり


 広島に原爆が落とされたとき、宇品(広島港)にたくさんの被爆者が逃れてきました。そして、その被爆者達は似島に次から次へと運ばれていきました。似島では、二つあった広い検疫所などが臨時の救護所となり、足の踏み場もないほど被爆者が収容されました。室内には収容できず、戸外の木陰などにうずくまる人たちもたくさんいました。
 島内では、主婦達が全力を傾け、一人の命もおろそかにさせぬように献身的に働きましたが、毎日毎日、家族や友人の名前を呼びながら死んでいく人たちが後を絶えませんでした。
 その遺体を、最初は一体ずつていねいに焼いていましたが、またたくまに死体の山ができ、検疫所構内広場(現在の似島中学校)で数体ずつまとめて火葬しなければ処理できない状態になりました。そして、どこの誰ともわからないまま、亡くなった方の死体が山と積まれ、次々と火葬されましたが、あまりにも死体が多く、また人手不足のため、火葬するのが間に合わず、穴を掘って埋葬したとも言われています。

 それから26年もたった1971年10月11日、似島中学校の農業実習地から偶然にも7体の人骨が発見されました。これは、原爆犠牲者の遺骨に違いない、と約1ヶ月かけて発掘作業をしたところ、617体の遺骨が収容されました。
 遺骨から身元の確認されたものは、遺族の手に渡されましたが、多くの遺骨は平和公園の供養塔に安置されることになりました。1971年12月15日、納骨慰霊祭、及び遺骨引き渡し式が行われました。また、亡くなった方々の冥福を祈るため、似島中学校の遺骨発掘の地には、慰霊碑が建立されました。
 この時広島市民は、あの日から26年もたってから、犠牲者の遺骨が掘り出されたことに対する驚きとともに、深い悲しみの心に包まれました。そして、ヒロシマの悲劇は決して終わっていたのではないことを事実を持って感じました。
 そして、広島の中学生がこの悲劇を詩につづり、曲がつけられて「にのしま」という合唱曲ができました。また、似島中学校でも校内から遺骨が発掘されたことを機に、戦争と平和への意識の高まりを背景に、平和教育に積極的に取り組み、生徒の声を「平和への叫び」という冊子にして、発行しました。

同声二部合唱曲  にのしま     ♪(MIDIで聴けます)
1.にのしまは 緑の島    明るい 太陽の島
  青い海があって  青い空があって
  波は静かに 打ち寄せる

2.誰が知っているというのだろう  三十年前の その姿を
  折り重なって死んだ 叫びをうずめ   白い雲が飛ぶ
  ああ にのしま

3.決して許しはしないだろう  三十年前の あのことを
  海に空に山に 傷跡深く  今日も生きている
  ああ にのしま

4.にのしまは みどりの島  明るい 太陽の島
  青い海が あって  青い空が あって
  波は静かに 打ち寄せる